2014年06月07日

上野東照宮に文鳥がいた

上野東照宮に文鳥がいると聞き、見に行ってきました。

ことりとあそぼ! 上野東照宮の彫刻 http://sorarun.blog107.fc2.com/blog-entry-752.html

門のところまでは無料です。

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この門に向って拝礼している人が多いのですが、私が門の向こう側で模様を見ている最中に、私に向って拝礼されると、どうもすんませんという気分でした。

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門の向こうに入るには500円払います。透塀に文鳥の姿がありました。

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日本における文鳥の最古の記録は、1697年刊の本朝食鑑となっています。現在の上野東照宮の建築は1651年なので、当初から文鳥だったのならば、これが日本最古の文鳥になります。(色が剥げているところを、塗りなおして修復しました。形だけから文鳥と言えるかといえば、よく分からないですね。)

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雀は粟穂を食べていました。

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私が気に入ったのは、この虎のおっぱいのレリーフ

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2014年01月11日

大英博物館に世界最古の白文鳥の絵があった

大英博物館のサイトで最古と思われる白文鳥の絵を見つけました。

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1842年頃に作成された「鳩小禽等図」と呼ばれる絵のシリーズが、東京国立博物館にあり、一部が大英博物館に所蔵されていることが知られていました。これはその一枚ですが、以前は、ウェブサイトには掲載されていなかったものです。おそらく、不完全な絵で、他の絵にある説明書きも欠けているからだと思います。

白文鳥の記録は前に記事にした1865年の英語のものが最古で、江戸時代の日本の記録ではやや怪しいものが一つあるだけでした。

背中の灰色が弥富型の白文鳥の特徴をはっきり示していて、貴重な絵だと思います。

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2013年09月01日

十姉妹の名前の由来

ジュウシマツはなぜ十人の姉妹というのか、その由来を書いておこう。
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2013年07月06日

文鳥の名前の由来

文鳥はなぜ文鳥と呼ばれるのか? よくある説明は、「美しい模様のある鳥だから」と言うものだ。これは、日本における文鳥の最古の文献である『本朝食鑑』に「形麗しきをもって文鳥と号す」とあるのにもとづく。

しかし、これはあまり説得的ではないように感じる。

美しさ、紋様があることを形容するなら、「もんどり」か「あやどり」になりそうな気がするし、金華鳥、胡錦鳥、小町雀のような美名が付けられるのは、明治以降だ。
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2013年01月05日

江戸時代に描かれた白文鳥の絵

江戸時代に白文鳥がいたかどうかは、記録が残っていないため、はっきりしなかった。私は、英語の資料が残っているのを見つけたが、日本にも残っていないだろうか、と考えていた。

(参考)
白文鳥はいつ誕生したのか?
http://rara-avis.sblo.jp/article/53080100.html
白文鳥はいつ誕生したのか?(2)
http://rara-avis.sblo.jp/article/53091598.html


国会図書館にある、『錦窠禽譜』の中それらしき絵を見つけた。私には白文鳥に見えるけど、どうでしょうか?

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http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592242/36

(つづきを後で書きます)

錦窠とは伊藤圭介(1803−1901)の号の一つ。『錦窠禽譜』は伊藤圭介所蔵の資料を、孫の伊藤篤太郎が整理したもの。

図の右下には「美濃大垣 江馬活堂図」、上部には、「鸚哥インコ インコニアラズ 足ノ指異ナリ 未詳 山」、左下には「伊藤篤太郎按上記ノ文中『未詳山』トアル山ハ山本亡羊ナリ」

つまりこうゆう事だろう。江馬活堂が白い鳥の絵を描き、インコと題をつけた。山本亡羊がその図を写し、これはインコではない。足の指が異なるから。(対趾足でないから。)種名は不明。とコメントをつけた。

なぜ、江馬活堂はこれをインコだとしたのだろうか?おそらく、彼は、この鳥を入手するとき(または見たとき)、インコだと言われたのだろう。

嘴の辺りが、文鳥らしくないのは種名が分からないままに、実物を見ずに絵を写したからだろう。江戸時代の文鳥の絵には、嘴が厚くなくて雀のようなものが、いくつもある。これは、実物を知らずに絵を写すとき、本来の特徴は減じられて、一般的な物に近づいてしまうからだ、と私は考える。

たとえば、同じ『錦窠禽譜』の中の文鳥の絵の嘴を見てほしい。

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http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592239/79

というわけで、私はこれが今のところ唯一の、江戸時代の白文鳥の絵だと思う。

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2012年10月01日

10月6日は十姉妹の日です。

ジュウシマツは、野生には生息していない。江戸時代に、中国から輸入されたコシジロキンパラという鳥から作り出された。

十姉妹が誕生したのは、おそらく、1850年の前後。しかし、江戸末期の混乱した時代だったので、記録は残っていない。十姉妹の存在を明確に示す記録は、日本ではなく、イギリスにある。

1860年10月6日、ロンドン動物学会は、日本から運ばれてきた7羽の小鳥を買った。そのうち2羽が純白の十姉妹であった。その日、十姉妹の購入を記録した日誌は、いまでも、ロンドン動物学会に保存されている。

日本では、維新前後に、飼い鳥の伝統は途絶えてしまった。しかし、白い十姉妹はヨーロッパで人気を博して、日本から輸出されつづけた。そのため、十姉妹はとだえることなく、幕末から明治へと生きのびることができた。

十姉妹がはじめてヨーロッパに渡り、記録された日、だから、10月6日は十姉妹の日です。(個人的には)

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2012年08月20日

オオキボウシインコはどうやって日本まで来たのか?

メキシコに住むオオキボウシインコ(Amazona oratrix)は、江戸時代に日本に輸入されている。記録によれば、文化十四年、文政九年(1817年、1826年)に中国からの船によって運ばれてきたという。

2012082001.jpg 「外国珍禽異鳥図」(国会図書館)

ではどうやって、スペイン領のメキシコから中国へ来たのだろうか?

私は、これはマニラ・ガレオン貿易によるものだと思う。

1545年、当時のスペイン領、現在のボリビアの山中で銀鉱脈が発見された。この鉱脈はポトシ銀山と呼ばれ、多くの銀を産出し、スペイン帝国の繁栄を支えた。銀はスペイン本国に運ばれると同時に、太平洋に面したメキシコの町、アカプルコからマニラに、そこから中国に運ばれ、絹織物や陶磁器を購入する代金に当てられた。この、アカプルコ・マニラ間の太平洋を横断する航海は、ガレオン船と呼ばれる当時としては最大級の船が用いられた。

メキシコのスペイン人が中国の物産を欲しがる一方で、メキシコ産のもので中国に売れるものは銀だけだった、というのが通説だ。しかし、メキシコのインコは、中国に向けた数少ない例外的商品だったのだと思う。

一羽のオオキボウシインコが、メキシコで捕えられ、アカプルコでガレオン船に積まれ、マニラへと運ばれた。そして、マニラから福建省の月港に運ばれ、中国の商人に買い取られた。商人は、この見慣れないインコは、日本で売れるだろうと思いつき、浙江省の乍浦港に運んだ。そこで、日本との取引がある別の商人に売った。その商人はこのインコを長崎に連れて行った。長崎の代官、高木作右衛門は商人に、これは何という鳥かと尋ねたが、商人はただ音呼だと答えた。高木作右衛門は、このインコの図を作成し、青音呼として、幕府に提出した。それが、上の図である。

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2012年01月20日

江戸時代の桜文鳥

前に引用した文献によって、白文鳥がヨーロッパに渡ったときは、すでにサクラ文鳥がいた事がわかる。「サクラ文鳥の中の白いものを選んでいって、白文鳥が誕生した」 という説があるが、それが正しいのかは分からない。ただ、サクラ文鳥のような、ノーマルとは少し異なるタイプの文鳥が存在したのは確かなので、資料を列挙しておく。

(1)水谷豊文の『禽譜』(1810年ころ)
「一種カハリ、觜モト紅、先白、ホウ白ク、腹薄白、背薄白在、頭薄黒、足薄紅」

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国会図書館所蔵

(2)川原慶賀が描いてシーボルトがオランダに持ち帰った絵。1826年ころ。

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ライデン国立自然史博物館所蔵 (National Museum of Natural History)


(3)『鳩小禽等図』(1840年ころ)の「替文鳥」

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東京国立博物館所蔵

(4)山本 亡羊『百品考、二編』1848年
「其他種種色変リアレドモ却テ観賞ナラズ」

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早稲田大学図書館所蔵

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2012年01月17日

中国のブンチョウの絵

台湾故宮博物院には、宋の賈師古の描いた「諸仙妙繪、爪畦雀」という文鳥の絵がのこっている。賈師古は、南宋時代、紹興年間(1131-1162)に活躍した画院画家である。「諸仙妙繪」は宋代を中心にいろいろな画家の絵を16枚集めた図冊のようだ。

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爪畦雀(台湾故宮博物院)

爪畦雀(ジャワすずめ)すなわち、ブンチョウの絵となっているが、頬の白斑がなく、羽の先が黒いことから、イカルのように見える。

ブンチョウの原産地であるジャワ島とバリ島には、古くから数多くの国が興亡した。中国には、5世紀ころからの、この地域の記録がある。 宋代の『諸蕃志』は、ジャワ島のグルシクから中国に輸入される品として、「白鸚鵡」を挙げているので、ジャワ島からブンチョウが運ばれてきてもおかしくはない。しかし、宋代にはジャワの表記として、「闍婆」を用いた。「爪畦」(または「爪哇」)と書くのは、1280年ころ以降のようだ。(※1)

したがって、賈師古が描いたイカルの絵を、後の人がブンチョウと誤認して、爪畦雀と記載したのだと思う。

以前に記事にしたが、上海博物館にある梅竹寒禽図も宋代の絵だ。描いた林椿は、淳煕(1174-1189)年間に活躍した、南宋(杭州)の画家。これは雪の中で寒がっているブンチョウを描いたもので、実際に中国でブンチョウが飼われていたことを示している。

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梅竹寒禽図(上海博物館)

ほかに、台湾故宮博物院には、清代の康熙から雍正に描かれた余曽三の「鳥譜」中に「瑞紅鳥」、清代末の屈兆麟 による「丁香爪哇雀」もある。

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瑞紅鳥(台湾故宮博物院)

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丁香爪哇雀(台湾故宮博物院)

ついでに言うと、これらのいずれにも「文鳥」の語がないのは、「文鳥」が日本でつけられた名前であることを示していると思う。


※1生田滋「東南アジアの伝統と発展」(中央公論新社)による。


追加、清代の李世倬(〜1770)による文鳥の絵

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台湾故宮博物院所蔵

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2012年01月16日

白文鳥はいつ誕生したのか?(3)

白文鳥には、優性と劣性の二種類がある。

優性白文鳥は、弥富市で長く生産されてきたタイプで、雛の時には背中に薄灰色の斑(ぶち)があり、換羽ともに白くなっていく。劣性白文鳥は、雛のときから全身が白い。遺伝的性質は、次のようになる。

・優性白文鳥どうしからは、優性白文鳥とサクラ文鳥(並文鳥を含む)が生まれる。
・優性白文鳥と並文鳥(ノーマル文鳥)からは、優性白文鳥とサクラ文鳥(並文鳥を含む)が生まれる。
・劣性白文鳥どうしからは、劣性白文鳥が生まれる。
・劣性白文鳥と並文鳥(ノーマル文鳥)からは、パイド文鳥が生まれる。
・優性白文鳥と劣性白文鳥からは、優性白文鳥とパイド文鳥が生まれる。

そこで、問題なのは、江戸末期に現われた白文鳥は、どちらのタイプかである。結論をいうと、優性白つまりいわゆる弥富タイプの白文鳥であることが分かる。劣性白文鳥が同時に存在していた可能性は排除できないが、当時の資料が示しているのは、すべて優性白文鳥である。


"But in breeding from White Java Sparrows it frequently happens that in the same brood some of the young birds turn out speckled, or even quite blue, whilst others are pure white."
Blakston, W. A., Swaysland, W., Wiener, A. F. (1877–80). The Illustrated Book of Canaries and Cage

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「しかし、白文鳥どうしのあいだから、しばしば一腹の中に、純白な雛のほかに、斑のある雛、あるいは全く灰色の雛まで現われる。」

"It is said the white birds breed more readily in confinement than the common Java Sparrows, but amongst the nestings there are generally some, which either return wholly to the colour of their progenitors or are partially gray and spotted."
Dyson,C.E:"Bird-Keeping",(1878)

「白い文鳥は並文鳥よりも籠の中で容易に繁殖するといわれているが、雛の中には、すっかり先祖に帰ってしまった色や、部分的に灰色とまだらになっているものが出る。」

"Occasionally, nevertheless, some parti-coloured individuals will make their appearance in the nest of pure white parents"
Green,W.T:"Feathered Friends - Old and New",(1896)

「しかし時には、純白の両親の巣に、まだらの個体が現われる。」

"At last, in 1893, they brout up one youngster, its upper surface entirely pearl-grey, its under parts white, beak and legs flesh-pink: at the first moult the grey wholly disapeared."

"one being coloured like an ordinary wild bird in its nestling plumage, with black beak and all complete, two somewhat paler, with party black beaks, and two resembling the young plumage of their mother -- grey and white, with rosy beaks and legs."

"About three days later, my pair of white Java Sparrows were heard feeding a youngster, which left the nest three weeks later and resembled a wild bird in its first plumage."
Butler,G:"Foreign Finches in Captivity",(1889)

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「(筆者バトラーの飼っていた白文鳥のペアは)ついに、1893年、一羽の子どもを育てた。その背面は全体にパールグレーで、下面は白く、觜と脚は肌色だった。最初の換羽で背中の灰色は、すべて消えた。」

この白文鳥はメスで、バトラーはこれを並文鳥とペアにした。1894年2月3日までに5羽の雛が生まれ、3週間後巣立ちした。

「一羽は觜もすべて黒く並文鳥のような色で、二羽はすこし色が薄くて、觜は部分的に黒かった。残り二羽は母親の雛のときに似ていて、灰色と白の羽毛で、ばら色の觜と脚だった。」

「およそ三日後、白文鳥のペアも、一羽の雛に餌を与えているのが聞こえた。三週間後に巣立ちして、羽毛は並文鳥のようだった。」


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2012年01月14日

白文鳥はいつ誕生したのか?(2)

1865年2月27日付けのロバート・スウィンホーの記録につづいて、いくつか白文鳥の記録がのこっているので、それを紹介する。

1866年5月22日発行の『エジンバラ王立物理学会報』のなかにある、ジョン・アレックス・スミスによる「鳥類学短報」は次のように記している。

March 28,1866.
"There was sent for exhibition an almost pure white finch, a so-called Japanese sparrow, recently brought to this country; the bird closely resembled the well-known "Java sparrow," of which, indeed, the specimen seemed merely to be a white or perhaps albino variety. "
Jhon Alex Smith:"Orinithological Notes",Proceedings of the Royal Physical Society of Edinburgh(1867),p393

1866年3月28日
日本スズメと呼ばれる、ほとんど純白のフィンチが、展覧会のために近頃わが国に運ばれてきた。よく知られた文鳥にとても似ていて、実際、白色あるいはおそらくはアルビノの文鳥と思われた。

「近頃」というのがどのくらいか分からないが、記載誌の前の号は、同年2月28日の発行であるから、数ヶ月前という程度か。

1868年2月28日発行の『週刊・園芸』という雑誌のバードショーの記事もある。

"We have much pleasure iu again recording the annual exhibition of Canaries and British and foreign birds at the Crystal Palace, which opened on Saturday last, and will continue until Friday.

The Foreign birds are not so well represented this year. There are some very beautiful Parrots, Cockatoos, and Paroquets. There is also a pair of Java Sparrows pure white, belonging to Mr. Hawkins, which attracted much attention. "
THE JOURNAL OF HORTICULTURE,1868年2月20日木曜日

クリスタル・パレスで毎年恒例のカナリア・その他の鳥の展覧会が、うれしいことに先週土曜に開幕し、金曜日までの予定です。海外の鳥は、今年は好調ではありません。美しいオウムとインコがいます。それから、ホーキンス氏の純白の白文鳥のペアも注目を集めてます。

とあり、白文鳥が受賞した記録も載っている。このときに出品された白文鳥は、話題となったらしく、複数の書物に記録がのこっている。

"At the Crystal Palace show in 1868, a pair of Java Sparrows were exhibited by Mr. Hawkins, entirely white, with the black head and throat and rose-coloured beak of the grey Java Sparrow, and with the plumage equally soft and downy, and I was told that they were most beautiful birds. The hen had laid four eggs. They came, I believe, from Japan, and were the first brought to England. Since then many pure white specimens have been exhibited."
Dyson, C.E. (1878). Bird-Keeping. A Practical Guide for the Management of Singing and Cage Birds.London

一八六八年、ロンドンのクリスタル・パレスの展覧会で、ホーキンス氏によって、一つがいの文鳥が展示された。一羽は全身が白く、もう一羽は喉と頭が黒く嘴の赤い、灰色の柔らかで滑らかな羽をもった文鳥だった。それは非常に美しい鳥だったときいた。メスは四つの卵を産んだ。その文鳥は日本から初めて来たと信じている。そのとき以来、多くの純白文鳥が展示されている。


年代ははっきりしないが、江戸時代の白文鳥の記録がさらに一件ある。ジェニーが1879年に書いた飼育書、『海外の飼い鳥』の中だ。なんと江戸に来て、繁殖の現場を実見しているのである。

"There are no birds, except canaries, which undergo such marked changes of plumage, when bred in confinement, as Java sparrows, and this is exemplified by the tendency exhibited by most of them either to sport whioe feathers or to become spotted with patches of dirty white and grey. The Japanese are enthusiastic naturalists and great lovers of birds. "

It was at Yeddo that I first saw an extensive bird breeding establishment, and there the manufacture of white Java sparrows was carried on upon a large scale. There were a large proportion of foul-marked birds produced, and these were sold for considerably less than the pure white specimens, a pair of which was presented to me by the courteous proprietor of the establishment.

These birds were bred in double cages, made of narrow strips of bamboo, coated with white chenam−a kind of whitening−and all the fittings were similarly painted, the whole being covered with a white calico case, which effectually prevented the birds seeing anything but their white surroundings, which were said to have a very marked effect upon the progeny.

I am not disposed to deny, nor can I affirm, the correotness of this theory, but my experience gces to prove that whilst these white birds breed more readily in cages than those of the natural colour, yet the white ones very rarely breed true to feather in this country. "
C.W.Gedney: "foreign cage birds"(1879)

カナリアを除けば、文鳥ほど飼育下で羽毛に著しい変化をした鳥はいない。それは文鳥が、白い羽となったり、あるいは汚い白と灰色のまだら模様になったりする事から分かる。日本人は、熱心な博物学者であり、偉大な鳥愛好家だ。

 私がはじめて大きな巣引き場を見たのは江戸だった。そこでは白文鳥の大規模な生産がおこなわれていた。かなりの割合で、染みのある鳥が生まれていた。それらは白文鳥よりずっと安く売られた。

これらの鳥は二重の籠で飼われていた。白く塗られた細い竹ひごと同じく白い器具の全体が、白いキャラコで覆われ、鳥は周囲の白以外には何も見えない。これが生まれる子にはっきり影響するのだという。

私はこの理論を肯定も否定もしない。経験的には、これらの白い鳥は野生の色の鳥より容易に繁殖するが、しかし、白い鳥がその色の子を産むことは少ない。

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2012年01月13日

白文鳥はいつ誕生したのか?

ジャワ島に住む野生の文鳥は、江戸時代から日本に輸入されていた。その中に白文鳥があらわれ、やがて白文鳥が飼育の主流となっていった。しかし、それがいつの事なのかは、よく分かっていない。

弥富市又八神社境内にある「白文鳥発祥の碑」によれば、元治元年(1864年)に八重という女が文鳥を持参して嫁いだため、又八部落での文鳥の生産がはじまった。明治初年頃になって、突然変異により白文鳥が生まれ、それが白文鳥のはじまりである。と説明される。しかし、この碑ができたのは1970年であり、これより古い文献に、同じ内容を見つけることはできなかった。そして、この碑文に矛盾する文献は多くある。

私が探した中でもっとも古い白文鳥の記録は、1865年2月27日付けで、ロバート・スウィンホーが、イギリス鳥学会の学術雑誌「IBIS」に台湾から送った報告である。スウィンホーは著名な博物学者で、台湾の高雄に在住していた。

I communicated before (Ibis,1863,p.380) the fact of Munia acuticauda having been domesticated in Japan to the extent of every shade of albinism and melanism, but I have not yet discovered whether the bird is found wild in those islands. I have since seen domesticated Java Sparrows (Oryxonis Oryzivora), also from Japan. These birds can scarcely be indigenous to Japan, and must have been taken there by the Dutch from Java. In the domesticated race every variety of albinism occured, but I saw no singns of a melanite tendency. The domestication may have only been partial. They breed freely in confinement, as do the Muniae.

Swinhoe, Robert:"Letters, Extracts from Correspondece, Notices, &c.",the Ibis,vol.I.1865,p348

以前、コシジロキンパラが日本で家禽化され、さまざまなアルビニズム(白化)とメラニズム(黒化)が起きている事実を、報告した。しかし、この鳥が日本で野生の状態で見られるのかは、まだ分からない。それ以降、私は、日本からの家禽化したブンチョウも見てきた。これらの鳥は、日本にはほとんど生息せず、オランダ人によってジャワから日本に運ばれたにちがいない。この家禽化された種では、さまざまなアルビニズムが起きたが、メラニズムの傾向はまったく見ていない。家禽化は部分的なものかもしれない。ブンチョウはコシジロキンパラのように、飼育下で自由に繁殖している。

「さまざまなアルビニズム(every variety of albinism)」とは何だろうか? アルビニズムとは通常全身が白くなることをいうので(サクラ文鳥も含むのかもしれないが)白文鳥のことだろう。ヒナのうちは背中に灰色の毛があるので、こういう言い方なのだと思う。

つまり1865年までには台湾で日本の白文鳥を見る事ができたとわかるが、では白文鳥はいつから日本にいたのか?

スウィンホーは1860年に駐台湾イギリス領事に任命され、1861年1月、台湾に赴任した。1862年5月には病気になり、イギリスに帰国した。イギリスで彼はロンドン動物学会のフェローに選ばれた。そして1864年2月に台湾にもどった。1864年9月に淡水区から高雄に移った。

このことから、スウィンホーが台湾で白文鳥をみたのは、1864年2月以降だとわかる。

そして、1860年には、日本で飼われていた白十姉妹などがロンドンに送られているにもかかわらず、白文鳥は送られていないことから、白文鳥が誕生したのは1860年から1864年にかけてだろう。

だとしたら、「白文鳥発祥の碑」の元治元年(1864年)とは、じつは、白文鳥が流行した年ではなかっただろうか? この年号が白文鳥と結びついて記憶され伝えられるうちに、八重が文鳥を持参して嫁いできた話と混乱し、100年後の碑文は、混乱した内容になってしまった。

そう考えれば、元治元年というみょうに具体的な記述も、納得できる気がする。

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2012年01月05日

『飼籠鳥』における「文鳥」

水戸藩の佐藤成裕(1762〜1848)の著した『飼籠鳥』(を滝沢馬琴が写したもの)が国会図書館に存在する。自序が1808年なのでこの頃に書かれ、会津の人厳恪の序は1821年とあるので、この時には完成していたと思われる。

文鳥の項が面白いので、抜き出しておく。差し餌で飼うことの起源が分かる。

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文鳥
往々海舶載来る是れ彼の地の産にして一鉢大形なり。日本にて産したるハ皆小ぶりなり。其価も亦た高直(値)也。其故羽の色光潤も殊に美わし。是れ皆風土の志からしむる故なり。乃チ文鳥とて来る故に、今、通して此名を称す。志れとも書籍に於て文鳥の名及形状を説きたるを見ず。其大さ頬白より大にして総身深緗色に両頬至て雪白なる事、頗る四十雀に似たり。廻轉の間に鳴て甚だ愛らし。 先年は長崎にて殖し諸方へ出し、近年ハ備前の児嶋郡の林村の佐藤九郎治なる者盡く巧者にて、数百羽を籠にして大坂及江戸に出す。是に因て諸方尤も多く、皆此者の庭籠より出たるなり。其巣を作らしむ法ハ先雌雄共に若き鳥を撰び、雌雄相中(仲)の能く和合してむつましきを正二月の此より庭籠に入て、自分よりして巣草を引ヶしむ。自然と巣調いて卵を産す。雌雄共に伏して殻を出ス。能き籠鳥は一孕に四五羽に至る。其雛自ら口を開く。人の指したる餌を喰ハすに其雛を皆取上げて指餌にて養ふべし。其餌ハ鶏黄(タマコノキミ)に生采を摺りて粱粉(キミノコ)を相合て蟲餌の如くして養ふなり。成長するに■て粱を食ふなり。及チ庭籠に置く時ハ其親の■にて恙なく成長す。取上くれハ、又巣草を引て同く卵を生す。凡ソ取上くれハ二番児三番児まて孕す。故に近來ハ是れにて甚た殖へ易し。此鳥甚た水を好む一日に二度も三度も清水を代て与ふれハ、幾度も水を浴して甚。尾羽の光潤至て美しくなるなり。所に因りて水あしかれハ其光潤甚しく宜しからず。水を吟味して能く洗浄て水さへ能く与ふれは、見事になるものなり。是れ及チ文鳥を飼ふ一の秘伝なり。

(大意)
よく輸入されるこの鳥は、外国産であって、一回り大形である。日本産のものは、みな小ぶりである。その価格も高値である。そのため羽の色艶もとくに美しい。これは風土によるものだ。文鳥という名で来るので、この名前である。しかし、書籍で文鳥の名や形状を説明したものはない。その大きさはホオジロよりも大きく、身体は、深いあさぎ色で両頬は雪白なので、四十雀によく似ている。

以前は長崎で繁殖してあちこちに出していたが、近頃は備前の児嶋郡の林村の佐藤九郎治が非常に巧みで、数百羽を籠にいれて大坂、江戸へ出している。そのため、どこへ行っても、この者の繁殖した文鳥が多い。巣を作らせる方法は、まず雌雄ともに若い鳥を選んで、仲の良くなったのを正月、二月のころから庭籠に入れて、自分で巣草を引かせる。自然と巣がととのって、卵を生み、雌雄でともに卵をかえす。よい鳥は、一回で四、五羽をかえす。

人が差し餌をするには、その雛をみな取上げて、差し餌すべきだ。鶏卵の黄身に生野菜をすって、キビの粉を合わせて、虫餌のようにして与える。庭籠に置いておけば両親に育てられて、すくすくと育つ。雛を取上げると、両親はまた巣草を引いて、産卵する。一般に、こうすれば、二番子、三番子まで産むので、近頃はふやしやすい。

この鳥は、とても水を好む。一日に二度も三度も新鮮な水を与えると、何度も水浴びして、尾羽のツヤがとても美しくなる。水が悪いと、ツヤがよくない。水を吟味して、きれいな水さえよく与えれば、見事になる。これがつまり、文鳥を飼う秘伝である。

(参考)
享和のころ備中備前に文鳥を畜(か)ふことはやり、これも一羽数十金にあたる、岡山藩よりいたく禁じられてつひにやみぬ。(菅茶山『筆のすさび』)

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2012年01月04日

中国の十姉妹

このところ古い事を色々と調べているので、覚え書きとしてとりとめもなく。

ジュウシマツの原種であるコシジロキンパラは、江戸時代までの日本では、「十姉妹」と呼ばれていた。コシジロキンパラの生息地である中国では「偸倉」が一般的な名前だったように見える。『至順鎮江志』(1333年)には次のようにある。

偸倉 似雀而差小籠蓄易馴雌雄遞放而不相失土人相傳橙樹未實者此鳥來巣則是年著花必實驗之果信 (『至順鎮江志』)

「雀に似てやや小さく、カゴで飼うとよく馴れ、雌雄をバラバラに放しても一緒にいる。地元民によると、まだ実のならない橙の樹にこの鳥が来て巣をつくると必ず花が咲き実がなる。」 というような意味か。

他に、司空圖(八三七年〜九〇八年)の唐詩「喜山鵲初歸三首」の中に「偸倉雀」の語があり、黄筌(〜965年)に「偸倉雀圖」があるらしい。また、先述のように『浙江通志』(1562年)には、「透倉 俗名十姉妹籠其一即其群皆來」とあり、1812年の『嘉慶漢州志』中「物産志」に「偸倉」という鳥名がみられる。

一方、「十姉妹」という名称は、薔薇の名としては多く見られるが、コシジロキンパラの意味では、『浙江通志』以外には見つからなかった。

しかし、江戸時代にはコシジロキンパラは一貫して「十姉妹」の名で呼ばれ、関盈文『海舶来禽図彙説』(1793年)には「清音シツイムイ」とも掲載されているので、この名前で輸入されてきたのは確かだろう。

また、台湾の故宮博物院に、コシジロキンパラを描いたものとして、黄筌(〜965年)の「嘉穗珍禽」、徐崇嗣(北宋の画家)の「豐年禽樂」がある。


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嘉穗珍禽

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豐年禽樂

追記
18世紀に刊行された『台湾府志』には、「蓽雀,似雀而小、紫色、唧唧善吟、置籠中能自來去。」とある。台湾在住の博物学者Robert Swinhoe は、それがコシジロキンパラ、ギンパラ、シマキンパラの総称であると解説をつけている。
(Journal of the North China Branch of the Royal Asiatic Society, 1865, NoII, pp41-42)

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続脩台湾府志(早稲田大学図書館所蔵)

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2012年01月01日

「十姉妹」の由来

ジュウシマツは何故十姉妹というのか?

よくある答えは、「カゴの中でもみんな仲良くしているから」で、まあ納得できる答えでそれでいいのですけど、名前の由来としては、誤っている。

十姉妹というのは、江戸時代までは野鳥のコシジロキンパラ(と、その類)をさす言葉だったからだ。


このことは『浙江通志』(明国、嘉靖40年・1562年刊)の中に書かれている。『浙江通志』とは、浙江(チョーチャン)、つまり現在の浙江省周辺の通志で、その物産の部の「嘉興府」に、次のような文章が見られる。

 透倉 俗名十姉妹籠其一即其群皆来

この文章の意味は「透倉」を俗に十姉妹と呼び、もし鳥籠の中に1羽の十姉妹が飼われていれば、たくさんの仲間が群れをなして飛んでくるという意味である。

(鷲尾絖一郎『十姉妹の謎を追う!』近代文藝社)

つまり「群れる」というのが「十姉妹」意味のようだ。

ただ、もう少しはっきりした何か根拠のようなものはないのだろうか、と思って探してみたが、結局分からなかった。以下、調べたことを羅列しておく。

1972年刊の林語堂の當代漢英詞典によると、「広東におけるある種の姉妹的関係で、少女たちが独立して働き、結婚しないことを誓う」とあり、諸橋大漢和辞典によると、「渤海の古俗で、婦人が互いに約束しお互いの夫の行を監察すること」とあるので、「十姉妹」は結束する女性につかう言葉なのかもしれない。

また、動植物に関しては@鳥のジュウシマツ(コシジロキンパラ)、Aサクラバラ、Bセキチク、Cハコネウツギ・ヤマウツギ、の用例がある。

Aサクラバラの用例が、古くからもっとも多い。賀集久太郎著『薔薇栽培新書』によれば、『汝南圃史』、『農圃六書』、『嘉興縣志』、『花鏡』の漢籍に「十姉妹」の記載がある。

薔薇栽培新書
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/840278/17

ほかに、『高濂草花譜』(1591年)、『群芳譜』(1621年)にも記載があった。

2012010101.jpg
『高濂草花譜』(早稲田大学図書館所蔵)

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『群芳譜』(早稲田大学図書館所蔵)


Bのセキチクについては、『河間府志』(1540年)に例がある。

2012010103.jpg
『河間府志』(国会図書館所蔵)

Cのハコネウツギ・ヤマウツギは、『大和本草』(1709年)に例がある。

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『大和本草』(中村学園大学図書館所蔵)(版がつぶれて読めないですが右端に)

B、Cはあまり例がなく、どの程度使われていたのか分からない。

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2011年12月30日

余曽三『百花鳥図』中の「五更鳴」について

国会図書館にある『百花鳥図』について、菅原浩・柿澤亮三『鳥名の由来辞典』は次のように、解説している。

清の康熙帝の命により、余曽三が100種の鳥を写生し張廷玉と顎爾秦が詩を賦した図譜で、雍正帝の時に完成し、その写本が乾隆2年(元文2年)に日本に渡来したもので、原本は現在中国に残っていない。……この図譜は江戸時代に「百鳥図」と呼ばれ中国の鳥名に当たる和名を求めるのに用いられた。

この図譜の原本は、中国大陸に残っていないようだが、台湾の故宮博物院には(おそらく写本が)『鳥譜』という名称で残っている。(ただし、故宮博物院ではその由来を把握していないらしく、作者、年代とも不明としている。また、複製がお土産として売っているようだ。)

国会図書館にはこの図譜は2部存在する。両者で順番がかなり異なるので、もとはバラバラな絵と詩の束であったと考えられる。

この図譜にある「五更鳴」が、国会図書館蔵と故宮博物院蔵で、まったく違っている。

2011123001.jpg
国会図書館蔵「五更鳴」A、鳥種不明
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286868/63

2011123002.jpg
国会図書館蔵「五更鳴」B、鳥種不明
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287325/32

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故宮博物院蔵「五更鳴」、ホトトギス
http://catalog.digitalarchives.tw/item/00/43/39/5f.html

今日では、「五更鳴」という名は、特定の鳥名としては用いられていない。五更(明け方)に鳴くという意味なので、どのような鳥にもつかえる曖昧な名称だ。

堀田正敦が1830年ころに著した『禽譜』が、東京国立博物館にあり、その中に『百花鳥図』から写した「五更鳴」の図がある。

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東京国立博物館蔵「五更鳴」、コシジロキンパラ
http://image.tnm.jp/image/1024/C0060467.jpg

国会図書館蔵の2図はともにこの図の左上の鳥と同じで、色が違っているだけである。つまり原本の「五更鳴」は、コシジロキンパラだったのである。

そして、じつはこの東京国立博物館蔵「五更鳴」と同じ絵が、故宮博物院蔵『鳥譜』中に「偷倉」という名前で、存在する。

2011123005.jpg
故宮博物院蔵「偷倉」、コシジロキンパラ
http://catalog.digitalarchives.tw/item/00/43/39/61.html

さらに、大川市立清力美術館所蔵の「五更鳴」(「稲に鳥図」)という、故宮博物院蔵「偷倉」とそっくりな絵を見つけた。

2011123006.jpg
大川市立清力美術館所蔵の「五ノ十七/五更鳴」(「稲に鳥図」)

以上から、私は次のように想像する。

余曽三が最初に書いた絵は、穀物(キビあるいはモロコシか)に停まるコシジロキンパラの絵で、そこに添えられた「五更鳴」という名は、「朝にさえずる鳥」というほどの意味であったと思う。(※1) その絵に、張廷玉は「五更鳴」の詩を賦した。

その絵の写しが複数つくられたが、@忠実なものの他に、A鳥の色を青く変更したもの、B穀物を花木(ヒメライラックか)に置き換えたもの、が存在した。

東京国立博物館蔵「五更鳴」は@、大川市立清力美術館所蔵「五ノ十七/五更鳴」はA、国会図書館蔵「五更鳴」はA、にもとづいている。「五ノ十七」とは5冊目の17番目の図という意味であろう。

故宮博物院蔵はBであるが、さらに「五更鳴」を描かれた鳥の名である「偷倉」に変更した。(※2)その結果、張廷玉の詩「五更鳴」に対応する絵がなくなったため、別にホトトギスを「五更鳴」の絵として付け加えた。

(※1) 『百鳥花図』では、鳥の種名を図ごとに記載しているので、余曾三が参考にした図に「五更鳴」とあったのを、鳥名と誤解したか、あるいは「五更鳴」もコシジロキンパラの名称の一つであったのかも知れない。
(※2) コシジロキンパラの当時の呼称が、「偷倉」であることは、1562年刊の『浙江通志』中に「透倉、俗名十姉妹」とあることから分かる。倉に入れた、あるいは入れるべき穀物を盗み食うという意味だと思われる。

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2011年11月25日

白いカナリアの系譜

優性な白カナリアが1660年ころにドイツに初めて現れたことはほぼ確かだ。ヨハン・ヴァルターは絵をひとつ描いており、医者のシュレッキウス、ぺルナウ男爵、そしてロシナス・レンティリウスはみなそれについて書いた。ドイツの仲買人は、背中にそれを背負ってパリの鳥の市に運び、そこではエルヴューがそれを見ている。イギリスにはごくわずかな数の白いカナリアがわたったが、やり手のエリエイザー・アルビンは彼の著書にその絵をひとつ入れた。しかし、希少な突然変異は絶えやすいもので、わずかな期間人気を博した末に、これらの白いカナリアは消えてしまった。
(中略)
それから、1918年に、今度はドイツで普通の緑色ローラーカナリアのストックから別のカナリアが現れた。……この突然変異個体は「優性白」だということがわかり、速やかに系統確立されて、非常に人気を博した。

ティム・バークヘッド、小山幸子訳「赤いカナリアの探求」新思索社


1918年の白カナリア出現の経緯は、Walker,"Coloured, type & song canaries" によると少しちがっている。第一次大戦の直後なので、記録に混乱があるのかもしれない。

1660年と1918年の白カナリアはともに、わずかに黄色が残っているという外見のため、同じタイプの変異だと考えられている。しかし、1660年のカナリアの子孫は一度途絶え、1918年に再び突然変異が起きたというのが定説のようだ。

本当に、そうだろうか?

1660年の白カナリアは、1787年に日本に来て、その姿が「唐蘭船持渡鳥獣之図」として記録されている。

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磯野直秀「舶来鳥獣図誌」(八坂書房)より

この白カナリアは、日本で繁殖をつづけ、1840年頃の「梅園禽譜」や1843年の「鳩小禽等図」に描かれている。

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「鳥の手帖」(小学館より)

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http://image.tnm.jp/Zufu/H0018251.jpg

また、1888年に、松森胤保は「禽類図譜」のなかで、

合黄の種たる目黒く色淡く毛羽正整にして、其の体豊富盈々の姿を標す。故に人は、多く合黄にして其の色極めて濃きものを賞するが如し。然れども是素より極黄の性を分かつものにして、全く其の真性の単純なるものに似ず。この中には又、其の色至淡にして殆ど白に体するものも又之あり

と述べていて、これは白カナリアのことと思われる。松森は記憶に基づいてこれを書いたようで、このカナリアを見聞したのがいつかは分からないが、幕末から明治にかけてだろう。

その後、日本でも白カナリアは途絶した。高野鷹蔵の「かなりや飼育の要領」におそらく明治のこととして、

又白色のカナリヤは『白牡丹』なる名を以て尚ばれた。この『白牡丹』は極黄のカナリヤから出た白変種で、世木公一と云う人の作出であるがいくばくも無くその跡を絶ってしまったのは惜しい

とあるの唯一の記録である。

1660年にドイツで誕生した白いカナリアは、各国に運ばれたが、ヨーロッパでは一八世紀に途絶えてしまった。しかし、日本に運ばれたカナリアが、繁殖して子孫をのこした。やがて幕末になると、日本にもヨーロッパの船がさかんにやってくるようになった。船員たちは白いカナリアを日本から本国に持ち帰り、そこで白いカナリアは繁殖をした。それがやがて熱心な飼鳥家の目に留まり、1918年に、展覧会に出品された。そこで白カナリアが再発見され、世界中に広まっていった。

そんなストーリー(ヒストリー)だったら面白いなと思って、前回の記事を書いた。

(前回の記事)幕末のカナリア、メモ
http://rara-avis.sblo.jp/article/50890763.html

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2011年11月24日

幕末のカナリア、メモ

カスバート・コリングウッド(※1)が1866年から1867年にかけての航海したときの記録。中国の飼鳥についての記述につづいて、次のようにある。

Canaries are also in plenty in the bird-shops; but Japan seems to be the paradise of the canary-bird. The " Scylla," homeward bound, was like an aviary. On a sunny afternoon I have counted 50 or 60 cages on deck, few containing less than two, and some as many as seven or eight birds, all singing in chorus. The attraction was that in Japan good singing canaries could be purchased at the rate of an itzeboo, or about one shilling and sixpence each; and the sailors, therefore, had made their hay where they found the sun shining.

Cuthbert Collingwood: "Rambles of a naturalist, on the shores and waters of the China sea",(1868)

カナリアも鳥屋に多くいる。しかし、カナリアの楽園は日本のようだ。帰路につくスキュラ号は、禽舎のようだった。ある晴れた午後に、デッキには数えて50か60のカゴがあった。だいたい二羽以上で、七、八羽入ったカゴもいくつかあり、みんな歌っていた。魅力的なことに、日本では良くさえずるカナリアが、一羽当たり一分銀、つまりおよそ1シリング6ペンスで買える。だから、船員たちはそのチャンスを逃さなかったのだ。

※1著者については下記
http://academic.reed.edu/formosa/texts/collingwoodbio.html

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2011年07月12日

ブンチョウ古名メモ

The Padda, or Bice-Bird, Edw. Nat. Hist. Birds, i. p. 41. pis. 41-42 (1743).
Le Padda, Edw. et Catesby, Samml. Ausland. Vog. i. t. 81-83 (1749).
Coccothraustes caerulesccns, Klein, Av. Prodr. p. 96 (1750).
Loxia fusca, Linn. Mus. Adol. Frid. p. 18 (1754).
Loxia oryzivora, Linn. Amoen. Acad. iv. p. 243 (1759).
Coocothraustes sinensis cinerea, Briss. Orn. iii. p. 244. pi. xi. f. 4 (1760).
Coccothraustes sinensis cinerea, Briss. Syn. Meth. i. p. 377. No. 12 (1763).
Loxia oryzivora, Linn. Syst. Nat. i. p. 302 (1766).
Coccothraustes sinensis cinerea, Gerini, Stor. Nat. Ucc. iii. pi. 328. fig. 1
(1771).
Loxia oryzivora, Mull. Volls. Natursystem, 3. p. 550 (1773).
Le Padda, ou Voiseau de Biz, Buff. Hist. Nat. Ois. iii. p. 463 (1775).
Gros-Bec de la Chine, Buff-. PI. Enl. 152. fig. 1 (1777).
Le Calfat, Buff*. Hist. Nat. Ois. iv. p. 371 (1778).
Le Padda, ou Voiseau de Biz, Bodd. Tabl. des PI. Enl. 152. 1 (1783).
Java Grosbeak, Lath. Gen. Syn. iii. p. 129 1783).
Bed-Eyed Bunting, Lath. Gen. Syn. iii. p. 210 (1783).
Java Grosbeak, Lath. Gen. Syn. Suppl. 1. p. 151 (1787).
Loxia oryzivora, Gmel. Syst. Nat. i. p. 850 (1788).
Emberiza calfat, Gmel. Syst. Nat. i. p. 887 (1788).
Loxia javensis, Sparrm. Mus. Carls. Fas. 4. tab. lxxxix. (1788).
Loxia oryzivora, Lath. Ind. Ornith. i. p. 380 (1790).
Emberiza calfat, Lath. Ind. Ornith. i. p. 418 (1790).
Loxia oryzivora, Licht. Cat. Rer. Nat. Rar. p. 43 (1793).
Loxia oryzivora, Daud. Trait. d'Ornith. ii. p. 393 (1800).
Sunda Grosbeak, Lath. Gen. Syn. Suppl. ii. p. 195 (1801).
Loxia javensis, Lath. Ind. Ornith. Suppl. ii. p. xlv. (1801).
Le Padda, Vieill. Ois. Chant, p. 94. pi. 61 (1805).
Loxia javensis, Shaw, Gen. Zool. ix. p. 300 (1815).
Loxia oryzivora, Shaw, Gen. Zool. ix. p. 316. pi. 51 (1815).
Emberiza calfat, Shaw, Gen. Zool. ix. p. 415 (1815).
Voccothraustes oryzivora, Vieill. Nouv. Diet. xiii. p. 545 (1817).
Fringilla oryzivora, Horsf. Trans. Linn. Soc. 1822, p. 161.
Fringilla oryzivora, Raffles, Trans. Linn. Soc. 1822, p. 314.
Java Grosbealc, Lath. Hist. Birds, v. p. 251 (1822).
Bed-Eyed Bunting, Lath. Hist. Birds, v. p. 331 (1822).
Loxia oryzivora, Hahn und Kiist. Vog. Asien, Lief. x. t. iii. (1822).
Fringilla oryzivora, Swains. Zool. 111. iii. pi. 156 et 2 (1822-3).
Fringilla oryzivora, Licht. Verz. Doubl. p. 89 (1823).
Emberiza calfat, Vieill. Encycl. Meth. p. 923 (1823).
Coccothraustes oryzivora, Vieill. Encycl. Meth. p. 1016 (1823).
Coccothraustes oryzivora, Shaw, Gen. Zool. xiv. p. 87 (1824).
Loxia javensis. Shaw, Gen. Zool. xiv. p. 83 (1824).
Loxia oryzivora, Cuv. Regn. An. p. 412 (1829).
Bed-Eyed Bunting, (Cuv.), Griff. Aves, ii. p. 129 (1829).
Java Grosbeak, (Cuv.), Griff. Aves, ii. p. 153 (1829).
Loxia javensis, Gulliver, Proc. Zool. Soc. 1842, p. 111.
Amadina oryzivora, Strickl. Proc. Zool. Soc. 1842, p. 167.
Amadina oryzivora, Blyth, Journ. Asiat. Soc. 1846, xv. p. 285.
Amadina oryzivora, Gray et Mitch. Genera Birds, ii. p. 369. No. 4 (1849).
Amadina oryzivora, Blyth, Cat. Birds Mus. A. S. Beng. p. 118 (1849).
Munia oryzivora, Bonap. Consp. Gen. Av. p. 451 (1850).
Padda oryzivora, Reichb. Avium. Syst. Nat. pi. lxxvi. fig (1850).
Oryzornis oryzivora, Cab. et Hein. Mus. Hein. i. p. 174 (1851).
Oryzornis oryzivora, Gray, Gen. et Subgen. Birds, p. 76 (1855).
Oryzivora leucotis, Blyth, Indian Orn. MS (1855).
Oryzivora orizivora, Blyth, Ind. Ornith. MS (1855).
Coccothraustes oryzivora, Eyton, Cat. Birds, p. 247 (1856).
Padda orizivora, Horsf. et Moore, Cat. Birds Mus. East Ind. Comp. ii. p. 504 (1856-8).
Padda orizivora, Moore, Proc. Zool. Soc. 1859, p. 443.
Oryzomis oryzivora, Swinh. Ibis, 1860, p. 60.
Padda oryzivora, Reichb. Singvogel, p. 42. pi. xv. f. 135-139 (1861).
Padda verecunda, Reichb. Singvogel, pp. 41, iv. pi. xv. 133 (1861).
Munia oryzivora, Swinh. Ibis, 1861, p. 45.
Munia oryzivora, Newton, Ibis, 1861, p. 115.
Munia oryzivora, Bernst. Journ. f. Ornith. 1861, p. 179.
Munia oryzivora, Scl. Proc. Zool. Soc. 1863, p. 219.
Munia oryzivora, Swinh. Proc. Zool. Soc. 1863, p. 299.
Munia oryzivora, Wall. Proc. Zool. Soc. 1863, p. 486.
Munia oryzivora, Jerd. Birds of Ind. ii. p. 359 (1863).
Loxia oryzivora, Martins, Journ. fur Ornith. 1866, p. 14.
Munia oryzivora, Schl. Proc. Zool. Soc. 1866, p. 424.
Munia oryzivora, Hartl. Proc. Zool. Soc. 1867, p. 826.
Munia oryzivora, Schl. et Poll. Madag. p. 154 (1868).
Oryzomis oryzivora, Cab. Decken's, Reis. O.-Afr. iii. p. 30 (1869).
Amadina oryzivora, Gray, Hand-List Birds, ii. p. 55 (1870).
Munia verecunda, Gray, Hand-List Birds, ii. p. 54. No. 6760 (1870).
Oryzomis oryzivora, Finsch et Hartl. Vogel Ost-Afr. iv. p. 433 (1870).
Padda verecunda, Finsch et Hartl. Vogel Ost-Afr. iv. p. 433 (1870).
Padda oryzivora, Swinh. Proc. Zool. Soc. 1871, p. 385.
Loxia oryzivora, Walden, Trans. Zool. Soc. 1872, viii. p. 72.
Fringilla orizivora, Bligh, Journ. As. Soc. (Cey. Br.), 1874, p. 67.
Padda oryzivora, Salvad. Cat. Ucc. Borneo, p. 263 (1874).
Padda orizivora, Hume, Nests and Eggs, ii. p. 454 (1875).
Loxia javensis, Gulliver, Proc. Zool. Soc. 1875, p. 490.
Padda oryzivora, Wald. Trans. Zool. Soc. 1875, ix. p. 207.
Padda oryzivora, Tweedd. Ibis, 1877, p. 317.
Munia oryzivora, Hartl. Yog. Madag. p. 404 (1877).
Oryzomis oryzivora, Fisch. et Reichn. Journ. fur Orn. 1878, p. 266.
Padda oryzivora, Salvad. Cat. Uccelli. Sum. p. 263 (1879).
Padda oryzivora, Legge, Hist. Birds Ceylon, pp. 646-7 (1879).
Padda oryzivora, Sharpe, Proc. Zool. Soc. 1879, p. 344.
Spermestes oryzivora, Russ, Stubenvogel, i. p. 136. pi. viii. (1879).
Loxia oryzivora, Licht. Cat. Rer. Nat. Rar. p. 43 (ed. 1882).
Padda oryzivora, Scl. Vert. An. Gar. Zool. Soc. p. 240 (1883).
Oryzornis oryzivora, Bohm, Journ. fiir Ornith. 1883, p. 201.
Oryzornis oryzivora, Schal. Journ. fiir Ornith. 1883, p. 363.
Oryzornis oryzivora, Fisch. Journ. fiir Ornith. 1885, p. 136.
Padda oryzivora, Kiitter, Journ. fiir Ornith. 1885, p. 352.
Munia orizivora, Shelley, Ibis, 1886, p. 312.

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2011年07月10日

文鳥の歴史を少しずつ書きます

文鳥が江戸時代からいて、白文鳥は日本で誕生した、というのはわりと有名で、色んな飼育書に書いてある。ただ、飼育書にある歴史はあくまでもお話という扱いで、どこまでが事実なのか、よく分からない。

たとえば、最近読んだ『小鳥図鑑』(島森尚子、誠文堂新光社)には、文鳥についてこうある。

当時、ブンチョウは中国から輸入されていたと考えられますが、中国では「文鳥」とはキンパラ属の鳥の総称でした。17世紀にわが国にやってきたとき、日本では(おそらく)最初に入ってきた現在のブンチョウを指す名称になったようです。

うーん、という感じだ。

まず江戸時代のブンチョウの輸入の記録は、全部オランダ船によるもので、中国からの輸入はないと思う。つぎにキンパラ属の総称として「文鳥」というのは、現代の中国語で、17世紀にはない。(文献があったら教えてください。)そもそも、キンパラ属という概念がないからで、十姉妹のようなフィンチのあいまいな総称としては「雀」が使われていた。ついでにいうと、日本に来たキンパラ属の最古の記録は、狩野常信が1667年に描いたヘキチョウ。

歴史的なお話と言うのは、飼育本にとっては添え物のような扱いなので、いちいちあげつらう事でもないだろう。それに納得いかないなら自分で書けばいいではないか、ということで文鳥飼育の通史を書こうと思っているけど、じっさい自分で調べて書くと面倒で、いや気がさしてきた。

はじめは、まとまったテキストとして書くつもりだったけど、無理そうなので、断片的なまま小出しに記事にしていこうと思う。

まず、文鳥は、しばしば、中国から渡来したと説明されるけれど、これは「文鳥」という漢字の名前がついていることによって生じた誤解。

一七世紀までの中国語では「文鳥」はブンチョウを意味していない。たとえば、台湾にある故宮博物院には「文鳥」の絵は三枚あるが、どれも文鳥ではない。

  (1)錢選(1235頃‐1301以降):名畫薈錦 宋錢選竹子文鳥
   これは、コシジロキンパラあるいは他のキンパラ属の鳥。

  (2)明宣コ寶繪 桐實文鳥(明の宣徳帝(1426 - 1435)時代か?)
   これは、イカル。

  (3)藍瑛(1585-?1670):明藍瑛畫花鳥 梅花文鳥
   鳥種不明だが、文鳥ではないスズメ目の小鳥。

また、諸橋大漢和辞典には、「文鳥」をブンチョウの意味でつかった用例は存在しない。

いっぽう、清の康熙帝の命によって余曽三が百種の鳥を写生した『百花鳥図』(1700年頃に成立)には、文鳥の絵がある。しかし、「文鳥」という名前ではなく「瑞紅鳥」という名である。

この写本は日本に持ち込まれ、鳥の中国名と和名を対照するのに使われた。そのため、江戸期の書物には、文鳥の漢名は瑞紅鳥とされている。瑞紅鳥の名がどのくらい一般的であったかは不明だ。

『百花鳥図』の「瑞紅鳥」の図は不正確で、おそらく実物を見ずに描いたと思われる。また、「この鳥はびん中(福州)に生まれる。」とある。福州は海外との交易が盛んだったところであるから、文鳥が持ち込まれていたのだろう。

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「瑞紅鳥」国会図書館蔵
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287328/16


堀田正敦の『禽譜』には、前述のように中国名の和訳らしき「いなすずめ」があるが、他には「清朝異称」として「洋蝋嘴」を挙げている。この名称も、実際に中国で使われていた。

清代末期に徐珂(1869−1928)が様々な事物や風俗を記録した『清稗類鈔』の中に、蝋嘴の一種として、「洋蝋嘴」が紹介されている。蝋嘴とはシメのことだ。シメとブンチョウは明らかに別種だが、この本は科学的な事実ではなく、見聞の記録なのでしかたない。

「又一種,體略小而嘴紅者,別稱洋蝋嘴。」とあるから、「他に一種ある。身体は小さく、嘴が赤い、別称、洋蝋嘴。」という意味だろう。

では、オランダ人がジャワ島から運んできたブンチョウを、「文鳥」と名づけたのはでは誰だろうか。

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posted by yanagisawa at 23:23| Comment(2) | TrackBack(0) | 飼鳥の歴史