2010年04月01日

幕末の白文鳥、隠された真実

名古屋に行って、古い文献をしらべた。新たに判明した事実を書いておく。

本草学は本来、薬となる動植物を研究する学問であったが、江戸時代にはより広く動植金石へとその対象をひろげ、西洋に於ける博物学に相当するものになった。江戸、上方とならんで本草学がさかんだったのは、尾張徳川家の城下、名古屋である。名古屋における本草学は尾張藩士が多くにない、水谷豊文、伊藤圭介らの研究には、シーボルトもその質の高さに驚嘆したという。

幕末になると、養鶏による内職、金魚の飼育など趣味的なものも含めて、多くの尾張藩家臣が本草学にかかわっていたといわれる。海部主膳もその一人であった。主膳の日記が一部残されているので(名古屋叢書所収)、それにそって見ていこう。

養鶏を内職にしていた親族に影響されて、主膳も鶏を飼いはじめたが、さほど利益を上げなかったようで、まもなく興味の中心は小鳥にうつった。ウグイス、コマドリなどの和鳥を飼ったあとで、カナリアを飼いはじめた。小鳥好きな同僚がカナリアの巣引きに成功したことに、影響を受けたためだ。しかし、冬のあいだにカナリアは落鳥し、主膳はくやしい思いをした。春になると、ダンドク、文鳥などの唐鳥を買い入れて、飼育をはじめた。その年の夏前には文鳥の巣引きに成功し、同僚にたいしては「大に是を誇る」と記録されている。

主膳の飼っていた文鳥から、白い雛が生まれたのは、その翌年であった。白文鳥の誕生は尾張本草界に広まり、藩医を通して、藩主徳川茂徳(もちなが)の耳にも達した。茂徳は白文鳥の誕生を吉祥であると大いに喜んだ。主膳は白文鳥とともにお目見えを許され、三百石の加増を賜ったとある。白文鳥は茂徳に献上されたが、このとき、文鳥の世話役として奉公に上がることになったのが、海部家の下女、八重である。主膳の飼う鳥の世話はすべて八重にまかされていたので、自然な流れであったが、百姓の娘の城中での奉公は異例であった。そのため、八重と他の女中たちとの関係は難しかったらしい。その八重の唯一の慰めが、自分が世話をする文鳥であった。名古屋城内の孤独に耐えられたのは、ひとえにあの白い文鳥のおかげだったと、彼女はのちに語っている。

この年、家光いらいおよそ二百年ぶりに将軍徳川家茂(いえもち)の上洛があり、往路名古屋城に宿泊した。十七歳の少年である家茂は、茂徳の見せる白い若鳥を珍しがり、同い年の妻和宮にも見せたいと言ったとされる。この白文鳥の姿は将軍家茂の心に深く刻まれたようだ。

京都に着いてから、二条城に滞在中に庭の木にたまたま文鳥がとまることがあった。当時、京都でも文鳥の飼育をするものが多く、逃げ出した文鳥が市中を飛び交うことがあったと記録に残っている。二条城に現れたのも、その中の一羽だったのだろう。家茂は小姓に文鳥を捕らえさせると、なぜこの文鳥は白くないのか、白ければ江戸にもちかえり、和宮にみせるものを、と言った。

そのように白文鳥に固執する家茂に、なぜ茂徳は白文鳥を贈らなかったのか。理由ははっきりしない。茂徳が白文鳥の巣引きを目論んでいたために手元におきたがったからかもしれない。これは、八重にたいして殊更に丁重なあつかいであった事からも推測できる。ただ、八重は若く、容姿もすぐれていたようなので、茂徳の意図は別にあったのかも知れず、真相は分からない。

結果として、白い文鳥は江戸に行くことはなかったが、家茂の心には強い印象が残り、事あるごとにその話をした。またそれとは別に、尾張における白い文鳥の誕生の噂は江戸にも伝わり、ひろく流布された。その頃品川にいたイギリス駐日総領事のオールコックも、その記録を残している。

当時の政情不安のなかで、徳川家における白い瑞紅鳥(文鳥の漢名)の誕生は、大いなる吉兆と受け止められた。幕臣のあいだには、これぞ将軍家の威光をとりもどす好機との気運がもりあがった。英明の誉れ高い家茂を家康の再来と仰ぎ、白鳥の出現は祥瑞である、まさに改元すべし、との議論が湧き起こった。

朝廷は新元号を「令徳」と提案したが、これは徳川に令するものと幕府は強く反発し、「元治(げんじ)」を元号として認めさせた。同年、家茂は従一位右大臣に昇叙し、新元号「元治」において源氏長者たる徳川将軍家こそ世を治むるべしと、幕臣は意気軒昂した。

このような気運のなかで、禁門の変が起きた。幕府は、朝敵とされた長州の討伐を決定した。当初は紀伊徳川家を征討軍総督の予定であったが、家茂の命により尾張家徳川家を総督にすることが決まった。これは家茂の心に名古屋城でみた白文鳥の姿が離れず、その姿に、なかば信仰のような意味づけをしていたからだと思われる。

このときすでに、尾張家の実権は茂徳にはなく、元藩主の徳川慶勝(よしかつ)が握っていた。慶勝は、戦争に乗り気ではなかったとされる。慶勝は総督に任じられると、三十六藩およそ十五万の兵を率いて長州に攻め入った。長州は降伏して恭順の意を示した。しかし、翌年長州が再び叛旗をひるがえし、第二次長州征伐の命が下ると、慶勝はこれを拒絶した。

しかし茂徳は、将軍家茂に同行して大阪城に入城した。尊王派の慶勝と佐幕派の茂徳は異母兄弟だが、尾張家における権力争いのなかにいた。安政の大獄や桜田門外の変による権力関係の変化が、それに影響を与えていたりして、事情は複雑だが、面倒なので省略する。

ただ面白いのは、この第二回長州征伐の際して、名古屋城に投宿した将軍家茂は、茂徳から白文鳥を贈られているのである。南北朝時代の名刀などとともに贈られているので、武運長久を祈念してなのだろうが、家茂の格別の所望があったのではないかと想像される。そしてこのときも、文鳥を連れて大阪城まで行ったのは、八重であった。

第二回長州征伐は幕府軍の敗北であった。徳川慶喜の弟松平武聰と老中小笠原長行は逃亡し、家茂は大阪城で病死してしまった。幕府軍は大きな混乱におちいり、またこれが幕府瓦解のはじまりでもあるのだが、白文鳥はどうなったのだろうか?

事情は分からないのだが、八重は文鳥を連れて名古屋にもどってしまったのである。家茂が死去し混乱する大阪城で、だれも文鳥のことなどかまってられなかったのだろう。八重としても、見知らぬ大阪から江戸まで文鳥をつれていくのは考えられず、茂徳の家臣たちとともに帰ってきたのだと思う。

茂徳はこのときすでに尾張藩主ではなく、隠居を強いられた身であった。幕府の敗北によって、一段と難しい立場に置かれたことになる。白い文鳥はもはや、やっかいな存在でしかなかった。「この白い鳥が来て以来、私は隠居する羽目になり、文鳥を愛した家茂は病死し、徳川は毛利に敗北した。なにが瑞鳥だというのか。」と白文鳥を疎んじ、八重に暇をだして、文鳥をつれて元の海部家に帰るように命じた。

しかし、文鳥のはじめの飼い主である海部主膳も、このとき既に病死していたのである。一時は白文鳥によって加増をうけ、藩主茂徳のおぼえもめでたかった主膳であったが、茂徳が実権を失ってからは、閑職に追いやられたようである。加増された三百石は安堵されたのか明らかでない。すぐに明治維新となってしまったので、正確な記録はのこっていない。

八重が海部家に戻されたとき、すでに八重の居場所はなかった。八重は暇を申し出て、生まれ故郷の村に戻ることを選んだ。そして、そのとき唯一つだけ願い出たことがある。それは、文鳥を村に連れ帰ることだった。八重は白文鳥を連れていくことを許され、まもなく結婚したという。八重の白文鳥は子孫をのこし、いまでは多くの人に愛されているそうである。



というのはもちろん全部うそです。もしさいごまで読んだ人がいたら、ありがとうございました。
posted by yanagisawa at 01:00| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記
この記事へのコメント
しっかり最後まで、とても興味深く読ませていただきました。
その白文鳥がどこかで命を落とさずによかった、
なんて思いながら。
『続きを読む』を見ても、まだしばらくは事態が飲み込めませんでした。
…うーん、やられた(笑)
Posted by やっちー at 2010年04月02日 01:13
続きボタンがあったのか・・・気が付かなかったわ><
で、どこからが嘘なのかしら・・・つて!
もしやエイプリルフール企画ですか????
いや〜ん><;
まんまと引っかかりましたよ〜

でも大河ドラマにでもなりそうな内容だったために、初の動物主役の大河が見たいと思ってしまいましたw
Posted by 井上トロ at 2010年04月02日 01:43
でたらめを書いているうちに熱中して、長くなってしまいました。
読んでくれて、ありがとうございます。
Posted by 柳沢 at 2010年04月02日 22:09
うわ。
まんまと最後まで読まされてしまいました。

Posted by para at 2012年01月24日 13:22
おもしろかった。(*´▽`*)
Posted by しずく at 2017年10月31日 00:39
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